はじめに
17歳から26歳までの藤本タツキを総括するという贅沢
藤本タツキ。
この名前を聞いて心がざわつく読者はきっと多いはずだ。
チェンソーマン、ルックバック、Goodbye, Eri。
これらの革命的な作品の源流にあるのが、今回のテーマである 短編集「17-21」「22-26」 だ。
つまり、本記事では 藤本タツキという怪物的才能の“進化のドキュメンタリー” を総ざらいしていく。
この短編集は、いわば漫画界の映画監督が、若き日から積み上げてきた「映画的センス」「狂気」「愛」「暴力」「ユーモア」「死生観」が原石の状態で詰め込まれている宝箱だ。
今回は映画評論家としての視点も織り交ぜ、
なぜ藤本タツキ作品は“映画みたいに読める”のか?
作品ごとにどんなテーマが育っていったのか?
裏側にはどんな思考や技法があったのか?
そこを徹底的に分解しながら、誰が読んでもわかる言葉で、しかし濃密にレビューしていく。
長いが、きっと最後まで止まらないはずだ。
短編集が示す藤本タツキの“世界の見方”
初期作品からすでに完成していた3つの軸
17歳からの作品を読むと、信じられないことに 方向性はすでに完成している。
以下の3つが、彼の全作品に通底している。
- 映画的文法(カメラワーク、間、編集)
- 死の影を身近に置く構造
- 愛と暴力の同居
まるで「映画を撮りたいけど漫画しか描けなかった少年」が、その衝動をそのまま紙に叩きつけたような鮮烈さがある。
17-21に現れる“原石のタツキ”
才能が暴発しながら形を整え始める時期
この短編集には以下が収録されている。
- 庭には二羽ニワトリがいた
- 人魚ラプソディ
- 佐々木くん
- マッドマン
- 他短編集作を含む
庭には二羽ニワトリがいた
映画でいうと“初監督作品の完成度”
驚くべきは17歳でこの作品を描いているという事実だ。
ほとんどの漫画家が模写や練習で終わる時期に、藤本はすでに 一つの映画を描き切っている。
ニワトリ、暴力、狂気、家族、監禁。
不安を煽る静けさと破滅のリズムが、後のチェンソーマンにも通じる「タツキ節」の源流。
絵の粗さはあるが、構成力がずば抜けている。
人魚ラプソディ
テーマ「救済」と「再生」がはじめて顔を出す
この作品で顕著なのは、タツキ特有の“愛と死”の関係性。
人魚というモチーフは古今東西さまざまだが、タツキ版は情緒ではなくドラマで描く。
人魚の存在は「救いたいもの」と同時に「手に負えない現実」の象徴。
ルックバックにも似た苦さ、Goodbye,Eriの“生と表現”のテーマにもつながる。
17歳でここを描く恐ろしさよ。
佐々木くん
変人の観察記録から見える“人間の距離感”
佐々木くんは、タツキの「人間を見る目」が光る傑作だ。
冷たいのに温かい、笑えるのに悲しい、この揺れ幅が天才の特徴。
佐々木くんというキャラクターは、後のパワーやレゼ、アキのような「強烈な個性を自然に存在させる」技術のプロトタイプだとわかる。
マッドマン
映画オタクが“映画そのもの”を描き始める
この作品はとにかくメタ的。
藤本タツキが持つ「映画への愛」がそのまま物語になっている。
特殊カット、画面構成、演出の間。
すべてが映画の編集テンポで描かれており、マンガでありながらシーンが動画のように脳内に流れる。
これがのちに
- ルックバック
- Goodbye,Eri
- チェンソーマン(アニメ構成を意識したコマ割り)
へと発展する。
22-26に現れる“熟成のタツキ”
表現技法の完成とテーマの深化
22-26に収録されている作品には、すでに藤本タツキというブランドの完成形が見える。
- 予言のナユタ
- 気づいたら人類が滅んでいた話
- 恋愛、暴力、地獄、家族
- 文脈ジャンプの多用
- 映像的転換の磨き込み
など、作品が一気に深化している。
予言のナユタ
初期ナユタ(チェンソーマン2部)との強烈なリンク
この作品は、後にチェンソーマン第2部で登場する“ナユタ”の原型になっている。
“特別な少女”
“殺すか守るかという構造”
“暴力の中の純粋な愛”
これらがすでに完成しているのが驚きだ。
ナユタはタツキの中で非常に大きいテーマであり、「人間の形をした災害」的モチーフとも言える。
気づいたら人類が滅んでいた話
ユーモアと地獄の融合が完璧に
タイトルからして藤本タツキ節。
笑えて、怖くて、悲しくて、だけどどこか救いがある。
SFとギャグを混ぜつつ、世界の残酷さと虚無をユーモラスに描く技術は、チェンソーマンのマキマさんやサメのビームにも通じるバランス感。
家族と暴力のモチーフの強化
藤本タツキ作品に欠かせない“家族”
22-26では、家族というモチーフが一段と成熟している。
- 疎遠な家族
- 機能不全の家族
- 疎外された子供
- どこにも帰れない主人公たち
これらはチェンソーマンの
- デンジとパワーの疑似家族
- デンジとアキの喪失
- 戦争、飢餓、死という「家族破壊」の象徴 にもつながっていく。
短編集は、彼の家族観がどう育っていったかを見られる教材だ。
時系列で見る“藤本タツキの進化”
17歳から26歳まで何が起きていたのか
時年齢ごとに見ると、彼の進化は“漫画家のそれ”ではなく“映画監督のそれ”だ。
17〜20歳
世界の粗さを描きながら、構成力が頭一つ抜け始める。
映像的な間や狂気が若さと混ざり合い、唯一無二の空気を創造。
20〜23歳
映画的手法の取り込み開始。
物語の「視点」をズラす技術を獲得しはじめる。
24〜26歳
感情線のコントロールを覚え、テーマ性が急激に深化。
読者が泣く・震える・笑うポイントを正確に突けるようになる。
この成長曲線こそ、藤本タツキという天才が “時代を代表する作家” になった理由だ。
藤本タツキ作品が映画好きに刺さる理由
漫画なのに「映画を観ている感覚」になる秘密
映画ファンが藤本タツキ作品を読むと、多くの人がこう思う。
「これ映画じゃん」
これは偶然ではない。
タツキは徹底して映画文法を使っているからだ。
1. カメラワークのようなコマ割り
俯瞰、寄り、視点移動、パン。
漫画なのに映画のカメラを感じる。
2. 編集(カットバック)の多用
場面転換が映画の編集テンポに近い。
特にGoodbye,Eriに顕著。
3. 余白の“間”が映画的
言葉を抜いて絵だけで感情を伝える場面が多い。
4. 音響を想起させる構図
バトルでも日常でも「音」が見える。
これが読者の没入感を爆上げする。
短編集は、まるで若手映画監督が世界を見つめながらカメラを回しているような瑞々しさがある。
17-21と22-26の違い
天才が磨かれる過程がはっきり見える
17-21:
バラバラなアイデアが暴発しているが、すでに“天才の骨格”がある。
22-26:
暴発していた才能が整理され、「物語」として完成し始める。
映画でたとえると…
17-21:自主制作映画の傑作
22-26:監督が商業作品で殻を破った瞬間
こんな印象だ。
学びとして残るポイント
読者・クリエイター・映画好きが得られる視点
- 表現には「技術」より「視点」が大事
- 死と愛はドラマを強くする
- 映像のセンスは漫画にも応用できる
- 家族というテーマは普遍的
- 初期作品にはその作者の未来がすべて刻まれている
未来のクリエイターにとってこれ以上の教材はない。
もし藤本タツキの短編集が好きならこの作品もおすすめ
映画好き・アニメ好きの読者に、相性の良い作品を紹介する。
ルックバック
必修科目。
短編集の全テーマがここで劇的に昇華されている。
Goodbye, Eri
映像と物語の関係性を最も深く描いた傑作。
短編集の映画文法が結実した一本。
チェンソーマン
狂気と愛と暴力の全部盛り。
短編集から続くタツキの全テーマが巨大化した作品。
Devilman Crybaby(湯浅政明)
愛と地獄の混ざり具合がタツキ作品と非常に近い。
波よ聞いてくれ
狂気とユーモアの掛け合わせのセンスがタツキ好み。
まとめ
短編集こそ最強の藤本タツキ入門であり、最高の研究資料
短編集「17-21」「22-26」は、藤本タツキという天才のすべてが詰まった“発掘されたフィルム”のような存在だ。
- 狂気
- 愛
- 映像的センス
- 家族
- 死
- ユーモア
- 社会
- 人間観察
- 映画的文法
17歳でこれを描き始め、26歳までにここまで熟成させている。
この短編集は、藤本タツキを理解する上で必読であり、映画好きにも刺さる唯一無二の作品群だ。
そして何より、彼のキャリアを時系列で追えるという特別な体験ができる。
ファンはもちろん、クリエイター志望の人にとっても宝物のような二冊だ。
チェンソーマンやルックバックしか読んだことがない人こそ、この短編集を開くべきだ。
そこには天才が世界をどう見つめ、どう成長したかがすべて記録されている。